執筆始め25

小説を書き上げることができるようになると、「一つのハードルを飛び越えた」といってもいいだろう。それが自信になり、それまで簡単にあきらめていた自分を、「何だったんだろう?」と思うようになるかも知れない。その時になって、改めて、「ハウツー本」を読んだらどうだろう? 以前は、「自分には小説は書けない」という気持ちがある中で読んだものだから、真剣に見ることができなかったのではないだろうか? 「できるかどうか分からない」と実際に思っていたとすれば、その時点で「ハウツー本」というものを見ることが、本当に自分のためになるのか? ということを思ってしまうからではないだろうか? だが、ハードルを自分で超えたと感じた時点で、もう一度同じ本を見ると、「違って見える」ということを実感できる分だけ、前とは違った感覚になるというものであろう。(つづく)

執筆始め24

小説を書き上げるということは、確かに難しいが、「書き上げることに意義がある」と考えると、それこそ、オリンピックで聞いたことのある言葉を連想する。ただ、オリンピックの場合は、参加することに意義があるというのは、各地域の予選を勝ち抜いて、出てきた選手のことであろう。つまり、全国大会であったり、世界大会に出場権を得られた人の称号ということになるだろう。しかし、小説はそんなことはない。どんな内容であっても、まずは、書き上げることが大切なのだ。書き上げれば、それだけで自信になり、小説執筆への苦手意識が飛び去ってしまうということになる。それを思うと、小説は、最初のハードルが高いだけに、その高いハードルを「いかにうまく乗り越えるか?」ということが問題になるのだ。それを思うと、「書き上げることの意義って、何なのだろう」といえるのではないだろうか。

執筆始め23

少し前回は、「小説を書き上げること」というものを、マイナスイメージで書きましたが、それは、ネガティブな発想ではないということも言えるような気がします。しかし、最後まで書き上げるということは、決して悪いことではなく、「初志貫徹」というものがあって、悪いことというのは、そんなにあるものではない。最初から、悪いことだと分かっていることに関しての、「初志貫徹」というのは悪いことではあるが、あとから気づいたことで、やり直しがきくものであれば、それは、悪いことではないともいえるかも知れない。最後までするには、そこまでに何度もターニングポイントがあったはずで、特に目の前がゴールという時、「百里の道は九十九里を半ばとす」という言葉だってあるではないか。それも一つのターニングポイント、それは年輪のように、たくさんあればあるほど、経験として、先に進むうえで、大きな力として、成り立っていくものではないだろうか?(つづく)

執筆始め22

小説を最後まで書き上げるということは、思った以上に難しいことでした。一番最初にそれをしようとすると、自分の中で、「何か一つのことを、犠牲にしたのではないか?」と思えるようなことがあったのだ。もちろん、それは最初の一回だけのことで、それが何だったのかということも、すっかり忘れてしまっていた。もっとも、この「犠牲にした」ということも、かなり後になって気づいたことで、それだけ、その時のことを忘れずに、ずっと感じながら、小説を書いていたということであろう。しかし、「何かを犠牲にした」という経験を思い出した瞬間、今度は別の記憶が消えたような気がした。それだけ、小説を書くということは大きなことで、一つ何か大きなことを得るとすれば、何かを忘れてしまったり犠牲にすることもあるのではないかというようなことを考えたりもするようになったんですよね。犠牲や、記憶の欠落というものが、執筆に必要だということであれば、最後まで書けない自分に、才能がないと思ってしまった過去を思い出すと、それも無理もないことだったのかも知れない(つづく)

執筆始め21

小説というものを書いていくうちに、最終的な、始まりの原則として、「最後まで書き切る」という前提があるということを、再度思い出していた。ハウツー本に書かれていた。「とにかく、最後まで書き切ることが先決だ」ということであるが、ここまで考えてくると、その現実味というものが分かってきた気がするのであった。そもそも、書けなかった理由の一番には、「小説を書くというのは難しいもので、一部のそれが許された人間がいて、その人たちだけが共有できる才能のようなものだ」と考えていたのだ。「ひょっとして、自分にもその才能があるのかも?」と考えていた自分が甘かったんだと考えると、「ああ、俺には才能がなかったんだ」ということで、「ただそれだけのことだ」と簡単にあきらめてしまう。それが、自分の中で、諦めの境地を感じることで、簡単にあきらめるということができてしまうという自分を作り出すということで、「こんなことなら、小説を書きたいなどと思わなければよかったんだ」と勝手に思い込んでしまうことになるに違いない。そんな風に感じるのだった。(つづく)

執筆始め20

小説を書くというのは、ある意味、長い文章を書くという意味で、「文字を埋める」ということで、どうしても、文字数を稼ぎたくなるのも仕方がない。逆にいえば、文字数を稼げないから、文章が続かないともいえる。だから、「一つのシチュエーションから、いかに、発想を浮かべることができるか?」つまりは、「連想力」というものが必要ですよね。だから、かつてあったような、「ケイタイ小説」と呼ばれるような、いたずらに無駄な空白が多い小説であるが、それは、良し悪しというよりも、「読みやすい」という発想からなのか、却って自分などでは読みにくかったです。正直あれを、「ネットの障害」のように思っていたのも事実で、どこまでが、許されるものなのかが、分からなくなった時期もありました。あまりいろいろと広がりすぎると分からなくなることだってありますよね? 今回はちょっと、持論からのつぶやきになってしまいましたが、気分を害された方がおられましたら、申し訳ありませんでした(つづく)

執筆始め19

カフェやファミレスでの執筆は、「写生をすること」ということから始まりました。それは、小説を書くということが、どういうことなのかということを感じさせるのでした。「どうして文章が続かないのか?」ということを考えると、「膨らませられないから」ということに気づいたのです。つまり、目の前にいる人をそのまま描いただけでは、すぐに終わります。「写生」というのはそうではないのでしょう。たとえば、朝信号待ちをしている男性がいたとして、まずは、サラリーマンであることはスーツで分かり、家族がいるかどうかの想像は、推定年齢で分かるだろう。表情を見れば、幸せなのか、もう一つなのかもわかってきて、家族構成も想像できる。そうやって、どんどん想像が膨らむと、文字数も稼げるというもので、一石二鳥といってもいいのではないだろうか? それがいよいよ作文から小説に変わっていくところなのではないでしょうか?(つづく)